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特に看護学では、看護というものをどう理解するか、人間をどうとらえるか、こうした根本的な問題にすごくこだわっていますから、その学問としての初々しさは、理屈抜きにいいと思っちゃうんですよ。 こんなこと、研究畑の人が聞いたら、怒っちゃうかもしれませんけど。
ひとごとだからおもしろがれることって、やっぱりありますよね。 ただ、その初々しさが、無批判に大学というシステムの権威を受け入れるような幼さにつながるようだと、いやになっちゃう。
これが、看護の世界にいて、私が一番緊張しちゃうところです。 看護計画を立てながら、時にこんなことを考えてしまいます。

だからきっと、ますますペンが進まないんでしょうが……。 見つけると、病状を記録する、という本来の意図を離れて、書き残すことそれ自体が目的化することも、しばしばです。
たとえば肝性脳症という、肝の解毒作用が低下し老廃物が脳にまわることで起きる意識障害では、昏睡になる前に異常行動が現れることがしばしばあります。 この肝性脳症では、〃とろーんと寝ちゃうタイプ〃〃怒りだすタイプ〃〃いやらしくなるタイプ〃とさまざまの行動・言動の変化があり、見ていて驚かされることが多々あります。
ある六十代の男性は、脳症になりはじめるとやたらと荷物を片づけはじめ、それがひと段落つくと、「それではそろそろおいとまします」と、ナースステーションにやってきて、ぺこぺこと頭を下げるのがお約束でした。 ところが、それを止めたら最後、腰の低さが豹変。
「なんで帰らせないんだ!大臣を呼べ!」と、騒ぎだし、肝性脳症の治療である点滴や、涜腸による老廃物の排泄促進を行なうのも、男手を借りて押さえつけないとできない状況だったのです。 ですから、私たち看護婦は、彼が荷物整理を始めた段階で、早めにそれらの処置をしないと、あとが大変。
「ダメだ!荷物整理が始まった!」「じゃあ、涜腸だ!」この看護婦の会話を聞いたら、いったいどんな病院なんだ、という感じですけど、こういう普通では考えられないことがいっぱい起こるのが、この世界なんです。 しかしそれでも、他の患者さんのことでばたばたしていて、彼の荷物整理を見逃してしまったことだってありました。
そうすると、足をがくがくさせながらも、ニコニコと〃おいとま″の挨拶に来た彼を見て、看護婦一同沈黙。 すぐに男性の医師を呼び、涜腸の準備を始めたものです。

ある時私は、その押さえつけてのお互いにツライ涜腸をする羽目になったんですけど、なんとか押さえつけて涜腸はできても、激しい便意でいつになくのたうちまわる彼を、ベッドの上で排便させるのは、本当に看護婦総出でも困難でした。 その時にはもう、立ったり座ったりも困難な状況だったはずなのに、人間、いざとなるとものすごい力を出すものなんですね。
結局最後は、ベッドの上に立ち上がられてしまい、腰を振ってベッドじゅうに便をまき散らされてしまったのでした。 この時初めて私は、力いっぱい彼の腰にしがみつきながらも、妙に客観的にその状況を記憶に刻んでいる記録者としての自分に気づきました。
これは別に、私が物書きだからということではありません。 私はとにかく、この場にいない他の看護婦とも、絶対このおかしな光景を共有したかった。
だからこそすべての始末が終わったあと、経過記録に事細かにその状況を記録してしまったのです。 簡潔に書くなら、〃ラクツロース溌腸施行。
施行中、体動激しく、ベッド周囲便で汚染する。 最終的に反応便多量にありとでも書けば、すむことだったでしょう。
しかし、看護婦総出の処置を記録するには、それではいかにも無味乾燥。 苦労があとの人に伝わりません。
結局私は、時間を少しかけて、こんなふうに記録をしました。 ラクツロース涜腸六人がかりで施行。
四人が身体を押さえ、ひとりが便器を押さえ、ひとりが虹門にねらいを定め、カテーテルを挿入した。 施行中、体動激しく抵抗。
寝たままで腰を振るばかりか、最後には制止を振りきってベッド上に立ち上がり、フラダンスのように腰を振る。 それにつれて便がベッド周囲の、床頭台にまで飛び散り、看護婦はみな便だらけとなった。
量的には反応便多量。 表情はっきりしてきている。

この記録は、仲間の看護婦に、かなりうけました。 別に、記録なんてうけをねらってするわけじゃない。
でも、各病棟にひとりやふたり、なんとなーく〃うけねらい〃の記録や引き継ぎをする看護婦って、必ずいるみたい。 さらに、うけをねらわないでも、うけちゃう天然ぼけもいるし。
実は看護記録って、それなりに個性がぶつかりあう、看護婦の〃作品″なのです。 その他にも、看護記録の隠れた名作は、たくさんあります。
〃窓ガラスまでふるえるようないびきをかいて眠っている〃〃ひとりではトイレまで歩けないと車椅子での介助を希望するが、ふと見ると、売店までは歩いて行っている。 アイスクリームなどを買ってきた様子″〃となりのベッドのお年寄りに、『おねえちゃん』と呼びかけている〃〃ベッド上で安静に、と声をかけると、足をひきずり、逃げるように部屋に戻る〃〃下半身のみ裸で廊下を歩いている。
注意するとなぜか、『汗をかいたので脱ぎました』と堂々としている〃どれも、わざわざ詳しく書かなくてもいいことかもしれないけど、書かれると目の前にその情景が浮かぶような、そんな記録。 その患者さんの状態や性格が、笑っちゃうくらい伝わってきます。
時には、その看護婦独特の表現、というものもあり、見慣れないとどっきりすることも。 以前一緒に働いた後輩は、患者さんの便の表現にやたら凝っていて、妙にリアルでした。
夜勤で時間があいた時に楽しみなのは、昔のカルテに綴じ込んである看護記録を読むことです。 〃普通便モンキーバナナ一本分あり″〃水様便茶碗一杯あり″〃小豆大の軟便片手一杯程度あり″これって、たしかにすごく正確な表現かもしれませんが、〃片手一杯″と言われると、すくってみたのか!なんてついつい思ってしまう。
私なんかはこういう表現ってうれしくなっちゃうんだけど、なかには〃不真面目で許せない〃って思っちゃう人もいたみたい。 彼女、よく先輩から、「緊張感が足りない」って言われるって言ってました。

もちろん法的な書類にもなるから、ある程度の枠に収まるのは仕方ないにしても、生身の人間を表現する記録として、もうちょっと自由に書けると、記録が嫌い、という看護婦も減る気がするんですけどね。 入退院をくり返している患者さんが入院してきた時は、過去の入院時の記録を参考にするため、以前の入院カルテが病棟に上がります。
時には、二十年以上前のカルテもついて上がってくることがあり、書式の違いや、サインされている名前を見て、びっくりすることもしばしばです。 昔は(といっても、今でもこうした形のところもあるようですが)、日中の記録は黒字、深夜勤の記録は赤字で書かれていました。
記録の量も今と比べたら全然少なく、処置と雑用に追われていた看護婦の姿が、行間から見えてくるようです。 また、すでに婦長になっているベテラン看護婦の、新人時代の記録なんかを見ると、なんかしみじみ。
すすけて変色している紙のにおいも、なんかノスタルジックで、ああ、一日一日大事に働かなきやなあ、などと殊勝な気持ちになります。

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